「夜と霧」人生はあなたに何を期待しているか?(後編)
戦時下の強制収容所。多くの人の命が絶たれていく一方で、厳しい状況の中でも生きながらえた人たちもいました。生死を分けたのはいったい何だったのでしょうか。本コラムでは、著作の中で紹介されている3つのエピソードから、「愛」「感動」「意味」をキーワードに精神の自由、人の心の逞しさについて紐解いていきたいと思います。前編はこちら。
心の中で愛する妻と対話する
ボロボロの衣服と靴で、雪の中を何キロもの道のりを移動している時のこと。V・フランクルは、心の中で愛する妻と会話したことを回想しています。
妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。眼差しでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るく私を照らした。
愛により、愛の中へ救われる。心の奥底で愛する人の面影に想いを凝らせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれることをV・フランクルは悟ります。自己を否定され、肉体的な自由を極限まで奪われ、耐え難い苦痛にさらされている状況においても、なお、愛によって満たされる体験が綴られています。V・フランクル自身が驚きを持って受け止めているこの体験は、生きることに対する愛の神秘性、力強さ、肯定感を感じずにはいられません。
もしもあの時、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、構わず心の中でひたすら愛する妻を見つめていただろう。心の中で会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。
沈む夕陽の美しさに感動する
世界はどうしてこんなに美しいんだ
強制労働で死ぬほど疲れたある夕べのこと。食事を済ませ、床にへたり込もうとした時に、「疲れていようが、寒かろうが、外に出よう」と仲間が呼びかけます。それは、沈みゆく夕陽を見るためでした。精神的にボロボロで、灰色の強制収容所の中において、自然の美しさに感動する人々の心が描かれています。
暗く燃え上がる雲に覆われた西の空を眺め、地平線いっぱいに、黒鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いで絶えずさまざまに幻想的な形を変えていく雲を眺めた。
移動中に見る夕焼けや山並みにうっとりし、美しい自然に魅了され、一時的に恐怖を忘れることができた、とされています。慰安旅行や行楽のハイキングではなく、生きるか死ぬかの間際においてなおこのように美と自然に対することができるというのは、自然が癒す力、人間に備わる深淵な精神力を感じずにはいられません。
人は強制収容所に人間をぶちこんで全てを奪うことができるが、たった一つ、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間として最後の自由だけは奪えない
生きる目的を見出せず
未来を、自分をもはや信じることができなかった者は、精神的な拠り所をなくし、肉体的にも精神的にも破綻していったと書かれています。1944年の12月クリスマスと1945年の新年の間の週に、かつてないほど大量の死者が出ました。過酷な労働条件や食糧不足、気候の変化や収容所内で流行していた発疹チフスの影響ということだけでは説明がつかない、とされ、原因は他にあるとしています。それは、多くの非収容者たちが、クリスマスには家に帰れるという、素朴な希望にすがり、その通りにならなかったために落胆と失望に打ちひしがれ、大量死につながったと説明されています。
このことから、V・フランクルは、「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きことにも耐える」というニーチェの言葉を引き合いに、強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持つことの必要性を説いています。生きる目的を見出せず、自分の存在価値に意味を見出せなくなると、人は生きていることに何も期待が持てなくなり、肉体的、精神的に崩れていきました。
生きることはあなたから何を期待しているだろうか
ここでV・フランクルは、生きる意味を問うことを主張します。それは、「生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ」という主張です。ドストエフスキーの言葉「私が恐れるのはただ一つ、私が私の苦悩に値しない人間になることだ」を引用し、どのような精神的存在になるかは自分自身で決断することができると説きます。
「夜と霧」を著したのは、V・フランクルが強制収容所の中で見出した生きる意味だったのでしょう。発疹チフスに侵され、朦朧とする意識の中で、最初の段階で取り上げられた学術書の原稿を、ちっぽけな紙切れに再現していきました。心の中での愛する妻との会話も沈みゆく夕日の美しさに浸ることも、生きる意味を与えることとなったのでしょう。
自分が「なぜ」存在するか
「生きることに何も期待が持てない」自殺志願者に対して、「生きることはあなたから何を期待しているだろうか」と、V・フランクルは問いかけます。生きることが自分に期待することとして、父の帰りを待つ愛する子供が待っていることを思い出した者、執筆途中の本を書き上げる仕事を思い出した者は、再び生きることに希望を見出し、自殺を思いとどまりました。
自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
V・フランクルは、到底生きる意味を見出すことができるようなものが与えられていないような強制収容所の中においてでさえ、人は生きる意味を見出せることができると述べています。そして、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限される中でどのような覚悟をするかという、まさに一点にかかっている、と彼の到達した境地を提示します。覚悟という言葉がとても重く感じられます。
苦しみを引き受けること
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
苦しみに意味を見出すこと。そしてそれを受け入れて生きることに新たな意味がもたらされるということでしょうか。苦しみはできれば避けたい、経験したくないと否定的に捉えることが自然に感じられますが、その苦しみにさえ意味を見出すことをV・フランクルは提案しています。そして、苦しみの状況において、私たちにはどのように生きていくかを選ぶことができる自由があることを思い出させてくれます。
強制収容所での出来事と現在私たちが直面しているコロナ禍を軽々に一緒くたにするつもりはありません。ただ、苦しみというのは唯一的なものであり、負っている人にとってはその苦しみの大小に関わらず、辛く耐え難いものです。V・フランクルの言葉を借りれば、「誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かを成し遂げるたった一度の可能性はある」ということになります。このように考えることが、絶望から生き延びるたった一つの頼みの綱だったと伝えています。
備わる力
心の中での妻との会話では、「愛の力」が私たちを癒すこと。
沈みゆく夕陽では、「自然と審美の力」が生きる喜びをもたらすこと。
そして、生きる意味を問うことで「生きることそのものに力」があること。
V・フランクルは自身の体験を通じて、これら3つの力が私たちには備わっていることを見出していきました。「愛の力」「自然と審美の力」「生の力」とつながることで、私たちは苦しみに意味を見出し、苦しみを受け入れて生きていくことができることが描かれています。
どのように生きていくかは私たち次第であり、その自由に気づくことができるのもまた私たち次第であるということでしょう。
コロナ禍の今
ここで、今一度、冒頭の問いかけをしてみたいと思います。
私たちはこのコロナ禍で何を学んでいるのでしょうか。
私たちはこの困難な状況からどのように生きていけば良いのでしょうか。
今、あなたの人生はあなたに何を期待しているでしょうか?
自由が奪われてもなお、愛を感じ、自然に触れ美に浸り、生きる意味を見出すことができるでしょうか?
どれだけ詳しく書いたところで、原著に記されている壮絶さを伝える術がないことは重々承知で、「夜と霧」をコラムに取り上げました。手に取っていただく価値のある書籍だと感じています。